つれづれ

備忘録

100de名著 論語 ユリナノ目

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http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/02_confucius/yurina_no_me.html
「恕(=思いやり)はまず「自分」にかけてあげるもの!」という考え方です。
自分で自分を見限らないで、自分を励ましてあげなきゃいけません。

そして、二つ目は、
実際に、その「自分の励まし方」。
「子貢曰く、貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは如何。子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、冨みて禮を好む者には若かざるなり。」
『貧乏で卑屈にならず、金持ちで驕慢にならないというのはいかがでしょうか?』
『それも良いだろう。しかし、貧乏であっても道義(学問)を楽しみ、金持ちであっても礼を好むものには及ばない。』

卑屈でない人、を目指すのではなく、道義を楽しむ人を目指す。
傲慢で無い人、を目指すのではなく、礼を好む人を目指す。

つまり、自分の中のマイナスの部分を無くそうとするのでなく、それよりもあくまでプラスのイメージを心に抱いてそれを目指す。
この考え方は、シンプルに思えて、以外と実践できないことのように感じます。
自分自身と向き合うとき、どうしても自分の欠点が真っ先に気になって、クヨクヨしたり、とにかくそれを直さなきゃ!と焦ってしまうことがあると思います。
そして、その欠点が無くなればきっとプラスの“何か”になれる!と思ってしまいます。
私もそんな風に心の中ではき違えてしまうことがしばしばです。
でもマイナスが無くなればプラスの“何か”になれる!ていうのは、きっとただの妄想なんですよね。
きっと本当に必要なのは、プラスの状態を想像する想像力…。

私が好きなマザーテレサの言葉で、こんな言葉があります。
私は戦争反対の集会には出席しません。平和のための集会を開くのでしたら私を招待してください。
このマザーテレサの言葉は孔子の精神ととても通じる部分があるように感じます。
何かを忌み嫌い否定する力よりも、こうありたいという姿を願う気持ちの方が、ずっと温かくて純粋で力強いのだと教えてくれている気がします。

否定ではなく、肯定を。
そんな孔子の“肯定力”にはとても惹き付けられてしまいます。

孔子はしばしば「現実主義者」というように表現されることがありますが、それは孔子がどんな挫折を味わっても、現実を肯定し、“生きる”ことに対して非常に丁寧な人だったからではないかと思います。
孔子は数々の挫折を人生で味わい、最期まで自身の夢を叶えることはできなかった人だとうかがいました。
しかし、どんな経験をしても、決してルサンチマンの固まりになることなく孔子は人生を肯定し続けています。
孔子は実はとても多趣味な人で、仕事にのみ執心せず、あらゆる面で人生を楽しんでいたと聞きます。
このような話からも孔子が人生の中でバランス(中庸)を重んじていた様子が伺えます。

人生という「過程」を大事にする姿勢。
夢が叶わなくても、その時からさらにどう生きて行くか。
孔子がその先の人生をどう生きたか、という所に『論語』に綴られた言葉の深みが見える気がします。
誰しも挫折や苦難を味わい、それでも生き続けよう!と思うからこそ、どう生を肯定し、“生き続ける”か、について多くを教えてくれる『論語』は昔から不朽の作品として読み続けられているのかなと感じました。

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